| ケイゾウさんのレース完走記その1 |
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| 第21回サロマ湖100kmウルトラマラソン完走記2006年6月25日 |
| サロマに向けてのトレーニングは3ヶ月前から開始した。とにかく時間内(13時間)完走が目的で、これ以上のスピードはつけられないので、LSD中心の練習になった。
平日は5〜10キロ、土、日どちらかに40キロ以上をキロ7〜8分でLSDに徹した。 30年来走って来て、5月に初めて月300キロを達成、特に5月は手がかじかむほどの雨の中の60キロ走、脱水症状になった50キロ走などがあったが、とにかく長い距離に対する精神的な面を克服することが出来た。 あとは毎晩風呂上がりにテレビを見ながらスクワットと踵上げ、腹筋、背筋、と筋トレを毎日実行した。 12年前にサロマ湖、野辺山、を完走して以来ウルトラを走っていないので、本当に完走出来るのか不安であった。 6月24日出発 6月24日レース前日に出発。12年前はツアーだったが今回は個人なので、2ヶ月前にAIRDOの前割りで羽田〜旭川片道¥10000、往復¥20000をゲット。 当日は寝坊してはシャレにならないので、携帯の他目覚ましをかけたが、さすがに興奮していたのか2時、3時、3時半に目が覚めてしまった。 今回同行者は去年のなまずの里でスタートで隣になったF氏63歳。私より10歳も年上なのに、2年前からマラソンを始め、1年前にフルを完走し(4時間15分)、来年サロマに行くと話したら、ぜひ行きたいと言うので今回一緒に行くことになった。 旭川に着きゲートを出ると、兄夫婦が出迎えてくれた。 兄夫婦は12年前にサロマに出たときに、サロマから300キロも離れた留萌から車で泊まりがけで来てくれて、スタートからゴールまでエイド、エイドで世話をしてくれた。 それ以来、兄夫婦はサロマに感動し、3年後にフルを完走し8年前にホノルル、7年前からサロマに出ていて、すっかりウルトラランナーになっている。 こちらと違うのは、冬はウルトラスキーマラソンになるらしい。 旅館に着いて、午後から車でコースの下見に出かけた。フル通過地点まで行ったが、これがレース当日には吉とでた。コースをほとんど忘れていたので、当日は下見したおかげで精神的に楽になれた。 スタート地点に戻りエントリーの受付を済まし、楽しみにしていたランナーは無料で食べられるホタテ焼きを食べようと思ったら、すでに売り切れていた。残念! 販売ブースに行ったら夜久さんが「ラブリーロード」の本のサイン会をしていて、その横に「ランナーズ」編集長の下条由紀子さんが立っていたが、なんと兄は挨拶を交わしていた。 利尻ウルトラで一緒だったらしい。 それから隣の湧別文化センターで行われた前夜祭に出てホタテと生うにをたらふく食べた。 泊まった旅館は名前は「都ホテル」だが、名前負けの単なる旅館だが、おばさん一人で切り盛りしていて、夕食がすごい、とにかくテーブルに乗らないほどの料理が出てきた。 カニ、ほっけ、ポークソテー、刺身、筑前煮、その他、食べきれない位出てきた。 兄夫婦は冬の85キロのスキーマラソンとサロマでずっと定宿になっているらしい。 おばさんの人柄が良いので毎年同じお客で埋まるらしい。 必ず全員翌年の予約をして帰るそうだ。まあ予約をしないと泊まれなくなるらしい。 6月25日 当日は2時半に起床、3時に朝食を取る。ゴンちゃんのアドバイスにより実弾をキッチリ出しておいた。 サロマは気温が勝負を分ける。30度以上の真夏になるかと思えば、10度を切る真冬日になることもある。今回兄のアドバイスで夏、冬全てに対応出来るウエァを持参した。 ちなみに30度を超えた年は完走率は47%に落ちたらしい。 朝、外に出たら雲一つ無い快晴、兄の「これは相当暑くなりそうだ。」の言葉で、ウエァは夏と決めTシャツ、ランパン、帽子、サングラス、そしてピンラン。 55キロで受け取る赤い袋には、ロングタイツ、長袖Tシャツ、手袋、ソックス、そして替えシューズ(アシックスのニューヨーク2110)、パワージュェル4本、この替えシューズが完走の大きなポイントになった。 もう1つサロマはワンウェイなのでゴール後に受け取る青い袋には着替えを入れてスタート地点で渡した。 いよいよスタート地点に立った。 12年ぶりである。思えばこの12年間は波瀾万丈、天国と地獄を味わってきた。 バブル崩壊で経営していた店舗(4店舗)の売り上げが減少し、そして倒産、自己破産により二世帯住宅の自宅の売却、とにかく家族以外全てを失った。妻は自殺も考えたが子供の顔が目に浮かび止めたと、後日話してくれた。 住む家も無く、明日食べるお金も無く、友達を周り頭を下げお金を借りなんとかしのいできた。 まさにどん底の状態から、エアコンのクリーニング、取り付けを自営で始めた。そして年間収入の安定の為、冷凍軽貨物業を開業し、元旦の朝4時から大晦日の夜中まで年中無休で必死に働いた。二足のわらじで9年間必死に働いてきた。 当然走る時間も無く、それに走ろうと言う気にもならなかった。 たまに走っても6時間を切るのがやっと。(ワーストはかすみがうらの5時間58分) ハセツネ2回連続第2関門リタイア、北丹第一関門タイムオーバーと散々。 去年7月に走り屋に入るまではテンションが下がったままだった。 自営で始めたと言うのも現代の流れに全くついて行けないので就職が出来ないとおもったからだ。なにしろ走り屋に入るまで家にあるパソコンなんかには触ったこともなかった。 文字を入れるのにローマ字入力と言うのも知らなかったし、妻には濁音、半濁音表を作ってもらったほどである。 今回の「チーム留萌」は兄夫婦と私とF氏それに義姉の友達のA奥様(61歳)2回連続サロマリタイアで完走出来ず。 その他(留萌走ろう会)のメンバー5人(全員完走済み)でチームは10人、特に今年はA奥様を完走させようチームになった。 兄は2勝3敗、義姉は3勝2敗、兄はここ2年連続70キロでリタイアなので今年は気合いが入っていた。 午前5時スタート 北の果ての為、3時半には明るくなり5時にはすっかり明るくなっている。今年はもやが立ち果てしなく続く大地にランナーがもやの中に浮かびとても幻想的だった。 順調に進み5キロを33分30秒、10キロを32分で(1時間5分)で通過、35キロのオホーツク国道までの道は北海道らしい牧草地帯で牛がのんびりしている横を走って行く。義姉は風邪をひいていて体調不良で25キロでリタイアした。去年はかなり無理をして9分前に完走し、その為にひざを痛め体調不良などで半年間位走れなかったそうで、今年は早々にリタイアを してしまった。 20キロ地点から兄の後ろを一人の若者が追走していたので、兄が話しかけたら19歳の若者でなんとハーフもフルも走ったことが無いのに、会社の連中とエントリーしてしまったとの事。こういう若者は絶対完走させてはいけない。そんなに世の中は甘く無い。これからの人生少しは苦労させなくては。(オヤジの単なるヒガミ?) 案の定35キロから徐々に始まる坂道で、遅れだしついに止まってしまった。これでいい!。 まあ人の事はどうでもいい。自分の完走も怪しいのだから。 A奥様は{チーム留萌}の若者5人にまかせ、兄と二人でフルの通過点を目指した。 F氏は竜宮台折り返し過ぎの20キロまでは少し前を走っていたのだが、それっきりまったく見かけなくなってしまった。一体どこへ行ってしまったのだろう。 それにしても気温が上がりだし暑い! 40キロの通過が4時間40分、ピッタリ、キロ7分のペース。 そしてフル通過地点の月見が浜に出た。ここからずっとサロマの脇を走る。美しいサロマ湖が雄大にこれからのレースを見守ってくれる。 42.195キロを4時間55分で通過、関門が5時間30分なので35分残している。 いよいよウルトラの道に 46キロから再び上がりになり果てしなく国道脇をランナーが走っていた。 ここから55キロまではずっと上がりで最初の難関である。とにかくエイドでは止まらない、歩きながら全ていただいてすぐに走りだす。 上がりは歩いているランナーが多くなる。兄のアドバイスで絶対歩くな!、歩いているランナーと同じ速度でも使う筋肉が違うので、次に走り出すときに大変になる。エイドでは絶対止まるな!歩きながら補給、食べられる物はどんどん食べる。! 後半になると胃がやられるので食べられなくなる。 50キロを5時間58分で通過、フル通過よりもペースが落ちキロ7分ペースから8分になり、貯金も3分減っていた。 なんとか55キロのレストスティションに到着。 ここでスタート前に預けた赤い袋を受け取る。ここまでアシックスサロマLSDで来たがソールの堅さが気になっていて、足首とふくらはぎにかなりの疲労がきていたので、思い切ってニュウヨーク211に履き替えた。これが大正解で完走まで痛みが解消された。 この先にの道の駅にはゴんちゃん、彪さんお薦めのソフトクリームがあるのだが今はそんな余裕は全くなかった。12年前は55キロで写真を撮ったりして30分くらい休んでいたのだが。残すところ45キロ。ウルトラマラソンという名の旅はここからが正念場である。 55キロ〜80キロ 暑い、とにかく暑い!5キロ毎のエイドが待ち遠しい。エイドには水、スポーツドリンク、麦茶、レモン、アメ、バナナ、梅干し、すいか、あんぱん、などが置いてあり、後半はスポーツドリンクは全く飲めず、(甘くて飲めない)、麦茶、氷水がおいしい。それに梅干しを食べ、15キロ毎に持参のカーボショッツを水と一緒に取った。これは後半のエネルギー補給にかなりきいた感じだった。 2.5キロ毎にかぶり水という大きな桶が三つ。氷が浮かんだ水が置いてあり膝にかけたり、頭を冷やしたり、ガブガブ飲んだり。この2.5キロ毎のエイドの時間が徐々にペースダウンになった。60キロ通過が7時間20分、ついに貯金が15分になってしまった。 だんだんと足にきていて、首が、腰が、背中が、イタイ。だんだんペースが落ちてきた。 サロマの関門は50キロから80キロまでが一番厳しい。単純にキロ7分ですべて通過をしなければならず、、特に50キロ〜60キロは1時間5分しかなく、その前の貯金を取り崩すことになる。キロ7分といっても坂ありエイドありで7分30秒位かかってしまう。 60キロ〜80キロの20キロの走りが完走の鍵となる。 A奥様は51キロでリタイア、それと若者一人もリタイアし若者4人はペースを上げて、前に行った。A奥様を完走させるために、若者5人がサポートし押し上げていたのだが、徐々にスローダウンしこのままでは全員がダメになってしまうので、A奥様とヘタッテいた一人を置いて上げてきた。ウルトラは50キロを過ぎると、人の事をかまっていられなくなる。それがまさか自分自身にも降りかかってこようとは。 70キロの関門を目指し兄と励まし合いながら3分前に通過。なんとここにF氏が路肩に座っていた。なんでも20キロ付近でURC(ウルトラランニングクラブ)の集団に付いてここまで来てしまったとのこと。さあ、一緒にに行きましょうと言ったら、もういいよと、相当テンションが下がっていた。それでも「ここまで来たんだからあと30キロですよ」と誘い、走り出したが「やっぱりだめだ!」と止まってしまった。一度切れるともう戻らなくなってしまうのだろう。 だからまだギリギリの方が切れないのかも知れない。 それにしても70キロ関門通過後に休んでいるランナーの多いこと。おいおい次の80キロもギリギリなのに、こんなところで休んでいる場合じゃないだろうと思いながら走り続けた。 兄は2年連続でリタイアしているのだが、2回ともハムストリングが攣ってしまったらしい。 それが60キロあたりから出始め、ついに73キロ地点で遅れ出した。 こちらも様子を見る余裕は無くそのまま走っていたら、後ろから「ケイゾウ先に行け!俺はここでリタイアする。!」と大きな声がした。私は走りながら大きく右手を突き上げて兄に合図を送った。後は任せてくれ、必ず完走するぞと。 その時に突然に涙があふれてきた。ポロポロと涙が流れて止まらなかった。なぜあの時泣いてしまったのかよくわからないが、肉体的にはボロボロでも感情は相当たかぶっていたのかもしれない。 とにかく80キロの関門までキロ7分を維持しなければならない。緩やかに上がっている国道の果てまで、まだまだ80キロの関門を目指してたくさんのランナーが走っていた。 ここまで来ると楽に走っているランナーなど一人もいない。もう必死に走っている。 自分も必死だったがヘタッているランナーや落ちてきたランナーに「80キロまでがんばりましょう!」と何人も声をかけて引っ張り上げて行った。実はこの行為は自分自身に活を入れていたのだが。 もうエイドでは止まる時間がないので、ボランティアの女子高校生もわかっていて、トレーに氷水のコップを並べて立っているので二ついっぺんに取り、1つは頭からかぶり、1つは飲み干した。 ついにワッカへ サロマの関門は実にいやらしく関門の手前にエイドがある。ギリギリランナーはそこで一息付けないのである。前のエイドと同じ様に走りながら水を取った。そして最後の上がりを必死に駆け上がり、なんと1分前に80キロの関門を通過した。 いよいよここからがワッカ原生花園である。フルの30キロの壁がウルトラの80キロにやってくる。地獄のワッカと言われる由縁である。 右にオホーツク海、左にサロマ湖に挟まれた細長い道が延々と続き何キロも見渡す限りランナーが走っている。 ワッカでの死闘を終えたランナーが続々と出て行く。みんな晴れやかな顔をして笑っている。 ついにこのワッカを脱出した喜びにあふれている。 私はまだ20キロも残っているのに。とにかく90キロの関門を目指したが、ここまでくるとさすがに腰、背中、首、足首、がイタイし足が限界に来ていてハムストリングとふくらはぎがピリピリと来ていた。誰でもここまで来れば身体はボロボロになる。でも本当のウルトラはこれを当たり前と思い楽しまなければ。 85キロの出会い とにかく同じ景色が延々と続く。少し小高い丘を上がり切るとまたそこには同じ景色が続きランナーがもくもくと90キロの関門を目指していた。 85キロまで来たときについに両足のハムストリングとふくらはぎが攣り始め、脱水症状で意識も遠のき始め、足が止まってしまった。 そして草むらに寝ころんでしまい、ついにここまでか、リタイアかと思い仰向けで青い空を見上げたそのときに、ふ〜と一人のランナーが「こんにちわ」と声をかけてきた。 あ!夜久さんだとバネ人形のように飛び上がり「握手をしてください」と言って握手をしてもらったら、不思議、不思議、またまたパワーが充電されたように走り始めた。 サロマンブルーの夜久さんはもうここでリタイアしたらしく止まっていた。 もう前にも後ろにもランナーがまばらになり始めていた。 そのときアキさんからメールが届いた。「もう少し!」これだけのメールなのに本当に泣けてきた。リズさんもレース中に何度もメールを送ってくれたのですが、その中の夜久さんの「レースは努力の晴れ舞台」、アキさんの言葉と夜久さんのこの言葉には勇気百倍になった。 それとレース前にカズさん、バラバさん、ナポさん、ゾウさん、Sugaさん,ひろみちゃん に応援メールを頂き、自分は一人で走っているのではない、走り屋のみんなが後ろを押してくれていると思うと、どんどん不思議とチカラが沸いてきた。 90キロの関門は折り返してからあるので当然往路の時に通過していくのだが、そこの役員に「90キロの関門まではまだ3キロあるけど20分しかないのでリタイアするよね」というので、冗談じゃない!いくよ!と言って通過したが、よく考えたら今までキロ9分で来て、ここからキロ6分半じゃ無理だよなと思ったが、ここからが勝負だと自分に活を入れて走り抜き、90キロの関門を10秒前に飛び込み通過。 通過後振り向くと、もう役員が関門を片付け始めていた。 感動のゴールへ あと10キロ、ここまで来たらもう完走しかない。 あれだけランナーが走っていたワッカ街道も、もう私の後ろには誰もいない。前もまばらのランナーとなっていた。 93キロ地点で再び夜久さんと言葉を交わし、ついに98キロ地点でワッカを脱出した。本当につらくて、苦しくて、何度も諦めかけたワッカだった。 ワッカを出ると、もうゴールまで2キロ。 今までまったく誰もいない道を走ってきたのに、脱出したとたん、沢山の人が応援してくれている。 あと500メートルのところで兄が待っていて、一緒に併走しながら「走れ!走れ!死ぬ気で走れ!」と叫び続けた。 沿道の人たちも「ガンバレ」「あと少し」「まだ間に合うぞ」と応援してくれた。 そしてついにゴール!花束を渡され、フニッシャーメダルを首にかけてもらった。 タイム12時間59分33秒、関門時間まで残り27秒。 兄の話では73キロでリタイアしてから収容バスでゴール会場に着いて、待っていたが最後らしきランナーがゴールしてから、もうしばらく誰も来ないので80キロで捕まったと思い、会場に戻ろうとしたら、後ろで歓声が起き始めたので、後ろを振り向くと遙か彼方から、一人のランナーがゴールに向かって走ってくるのが見えたらしい。 まさかと思ったが段々と見えてきたのが、見覚えのあるピンランだったらしい。 本当に諦めなくてよかった。ウルトラマラソンは何があるかわからない13時間の壮大なドラマだった。 最後に さよならパーティもしっかり出てたらふく食べた。 しかしあの時、夜久さんに会わなければ絶対完走は出来無かっただろう。あとほんの一分でも多く寝ころんでいたら完走は無理だった。 夜久さん、本当に、本当にありがとうございました。 車で旅館に帰る途中、今レースで走って来た道を車の窓から見ながら、サロマ湖を見た。素晴らしい夕焼けの中のサロマ湖が見えた。 次の日の朝、不思議なほど筋肉痛は全くでなかった。 そして来年の予約のノートに兄夫婦の名前の下に自分の名前を書く自分がいた。(彪さん風になってしまいました。) 最後に夜久さんの一小節です。 ゴールで涙を流したことがあるだろうか。 もう、これ以上走れないとあきらめたことがあるだろうか。 100キロを走ると生身の自分を知る。 思わぬチカラに驚いたり、弱さに愕然としたり..... 100キロにごまかしはきかない。 トレーニングの足りない者には苦痛は容赦なくやってくる。 自分をコントロールしながら走る醍醐味。 100キロには、大の大人をとりこにする何かがある。 |